2019年 06月 05日
天安門事件 |
とあるジャーナリストの記事をシェアします。
写真は彼の撮影
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シェア大歓迎です。天安門広場では「学生は1人も死んでいない」という池上彰さんの講演での発言を批判されるTweet が多いのを見て、現場にいた私はこれを書かないわけにいかないと思いました。
池上さんの発言は正しいし、広場内に残っていた私が知るすべてのジャーナリストに共通しています。
1989年6月3日夜に、まず軍が天安門に広場に入るところから始まります。最初に入って来たのは装甲車でしたが、それはすぐに暴徒化した市民たち(学生たちではない)に火をつけられ炎上します。この時に兵士の方に死亡者がいても不思議ではありません。またその兵士を救おうとする軍と市民との衝突で、市民・学生にも怪我人は出ています。
そして軍はすぐに大量動員であっという間に広場の周囲を取り囲みます。この時ずっと高いところから兵士が空に向けて、何かの合図のように発砲していました。実はその弾丸が私の2、3m先に落ちてきて私はドキッとしました。
この頃、学生たちは広場の中央の人民英雄記念碑の塔の周りに集まりました。死ぬことを覚悟したかのような深刻な表情が伺えます。
そして私はそれを目撃してはいないのですが、学生たちのリーダーや一昨年亡くなったノーベル平和賞を受賞した劉暁波さんが、軍と交渉して、学生たちは平和に撤退するから退路を用意することを話しあいました。というか、軍が囲んだ後も、一方向だけずっと道は空いていました。
軍が囲んでから撤退が始まるまでは数時間かかっています。軍はゆっくりと人民英雄記念碑の方に進んできて、兵士たちが記念碑を占拠します。この時に兵士から学生への発砲はありませんでしたが、高いところにある学生側のスピーカーを壊そうとしての機関銃の発砲はずっとありました。
その連続する銃声を広場の外にいたジャーナリストたちが聞いたら、学生たちは虐殺されたと思ったかもしれません。ほとんどのジャーナリストはホテルに戻っていて、中にいたのは私を含め12,3人ぐらいです。携帯電話がなかった時代です。広場の外にいたジャーナリストたちが、中からの銃声を聞いて虐殺が行われていると思って
「何百人、何千人が死亡している模様」
と、推測による第一報を次々と送ってしまったのです。これが事実が間違って伝わっていく原因でした。広場にずっといるような記者達ではなく、ホテルに戻っていた記者達です。
そして記念碑を離れた学生たちはゆっくり、ゆっくりと退路へ進んでいきます。戦車前に大勢がいる写真がありますが、緊張感がないのが判るかと思います。虐殺が行われている様子ではないのが判るかと思います。
そして最後に学生リーダーが手を繋ぎました。それは戦車を止めようとしているのではなく、学生が戦車に向かうのを止めているのです。彼らの学生運動には3つのスローガン
あり、「民主主義・報道の自由・非暴力」でした。なので撤退を決めたのは「非暴力」というスローガンに忠実だったのです。
広場から出た私はすぐにタクシーでホテルに戻り(タクシーが拾えるような状況だったのですよ)、短波放送でVoice of America を聞きました。そしたら広場で学生たちが300人以上死亡したと報道されていました。しかし、それは事実と違うのです。そもそもその放送局の記者は現場にはいなかったのに。
以上が天安門広場の中で私が目撃したことです。広場内ではなく、広場の外で軍と市民との衝突があり、そこでは軍が市民への銃撃をおこなっていて死者がでていますが、市民が暴徒化して軍に向かって、軍にも死亡者が出ている状態です。これらは学生たちではなく、市民です。広場内の学生たちは「非暴力」のスローガンに忠実だったのです。
なので天安門事件を正しく伝えていないのは、西側ジャーナリズムの方です。ほとんどが伝聞や想像での記事で「何百人、何千人、何万人」と数字をエスカレートして増やしていきました。でも広場に残っていたジャーナリストは死者を見ていないのです。
もし西側ジャーナリズムがこの事件の顛末をきちんと報道していたら、中国の民主化は多少なりとも改善したのではないのか、という気持ちが私にはあります。中国政府の高官達と思われる集団は、広場に隣接している建物の高い階から、様子をずっと見ていました。私はその姿を目視しています。
人民記念碑や天安門広場は中国政府にとっても大事な場所です。そこを血の海にはしないという意図を私は感じました。
だからこそずっと最前線で取材できたのです。
真実を調べて語っている池上彰さんの名誉のために記しました
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by yama-8931
| 2019-06-05 22:28